—— 今年のテーマである〈とるにたらない〉についてお聞かせください。
前回開催から今回のAsian Film Jointまで約2年のあいだに、世界の様相が大きく変わったことが背景にあります。世界中のあちこちで、大小問わぬ様々な次元で、「権力」があからさまに発動・強行されては、誰かにとって特別で大切だった物事が、次々と〈とるにたらない〉ものへと押しやられていく様子を目の当たりにしてきました。
「ささいなことである」「わざわざ問題として取り上げる価値もない」「大局には影響しない」「議論に値しない」「つまらない」——。誰かが何かを〈とるにたらない〉と判断するとき、そこには何かしらの権力や暴力が発動しているのではないか。そして、そうやって一度〈とるにたらない〉と烙印された物事や人々たちは、その後一体どうなってしまうのか。どんな歴史の史料にも、誰の記憶にも、名前や痕跡すら残すことなく、ただ透明にされたまま忘れ去られていくしかないのか。
自分の現実から生じたそうした問題意識と、今年のAsian Film Jointを準備するなかで見てきた作品群が自然と結びついていきました。今回、テーマを〈とるにたらない〉とすることで問題にしてみたいキーワードをもう少し別の言葉で言い換えてみるなら、まずは「記憶」「歴史」「権力」「抵抗」「尊厳」といったことになりそうですが、そうしたことを「映画」を通して考えてみられないかと考えたんです。
—— 「映画」を通して、ですか。
いま自分たちの現実に対して私たちは何が出来るのかと考えていくなかで、もちろんまずは喫緊で起こすべき具体的なアクションが山積みではありますが、最終的には私たち一人ひとりがそうした〈とるにたらない〉とされてしまったものたちを「忘れずにいる」ことが大切なのではないかと思いました。彼らの存在を何度でも見出し、眼差しを向け続けること。遺された微かな声に耳を澄ますこと。もうそこには存在しておらず、気を抜くとすぐ見過ごしたり忘れてしまう彼らのことを折にふれては思い出し、「確かにそこに在った」という事実を自らのうちに、そしてこの世界の記憶として息づかせること。
そしてこの「見出し、耳を澄ませ、記憶を息づかせる」ということはいずれも「映画」が持つ特性に通じるものだと気づきました。だとすれば「映画」それ自体も、今この現実に抵抗するひとつの手段になり得るかもしれない、と思ったんです。
—— それでは、今年のプログラムは「権力によって透明にされた人々や物事」が登場する作品が上映される、ということですか?
いくつかの作品はその通りですが、実際はもう少し幅のある〈とるにたらない〉を、映画を通じて届けられたらと思っています。たとえば映画のなかで、どんな歴史の教科書にも残らないような無名の人々の何気ない振舞いや、物語にどう関わってくるかもわからない〈とるにたらない〉場面を見せられたとする。そのとき多くの観客はきっとまず「なぜ自分は今、こんなにも取り留めのないものを延々と見せられているのか」と感じます。映画から託される微かな情報を頼りに、画面の向こうにある世界の拡がりを手繰り寄せようとしても、その試みが毎回上手くいくとは限りません。そうして徐々に観客は不安になってくる。もしかしたら自分は既に、何か決定的なものを見過ごしたり、聴き逃したりしてしまったのではないか。ときには「この場面はとるにたらないだろう」と切り捨てた何かが、後で大切なものだったと気づかされることだってあるかもしれない。
しかし、劇場の暗闇の只中でこうした寄る辺無さに身を預けてみてこそ、画面そして世界を鋭敏に視・聴する能力や、物事を感知できる解像度が上がることもあるのだと僕は思います。わからないもの、見えないもの、聞こえないものたちを、それでもなお注意深く知覚しようとすることによってのみ捉えられる実相があるのではないか。そのためにも、何かを早々に〈とるにたらない〉と捨象することなく、それらをただじっと見つめ、耳を澄ませてみる。そこから私たちはようやく世界と新たに出会い直せるのではないか。こういった経験を皆と共有できるような作品を上映したいと思っています。
—— 映画のなかの〈とるにたらない〉人々や物事をじっくり見つめることが、現実の〈とるにたらない〉ものへ向ける眼差しや姿勢をも変えていくのではないか、ということですね。
そうです。それはちょうど暗闇にぼんやり現れる点と点を結び、自分なりの意味や物語を成す星座に編み上げていくような行為ではないかと思っています。今回上映する作品からいえば『オアシス・オブ・ナウ』や『目は開けたままで』などは、こうした眼差しによって手繰り寄せられるものや、その先にある微かな希望を見つけてもらえる作品だと思っています。
しかし、ここまで考えを進めたところで、今度は映画から「待った」をかけられるように、僕のなかに次なる問題が浮かび上がってもきます。
—— ふむ。それはどういう問題ですか。
ここまで説明した通り、まずは〈とるにたらない〉物事を見つめ、それまで見過ごしてきた何かに輝きを見出す。そのこと自体は希望なのだと僕は信じていますが、同時にそれは、ある物事に自分都合で意味や目的を投影し、現実理解を身勝手に組み替える欲望と背中合わせでもあるのではないか、という危うさが頭をもたげます。
「ただそこに存在していた」だけの〈とるにたらない〉ものたちに、勝手に意味を被せ、自分都合のナラティブへ引き込んでしまうことの危険性。そもそも「権力」に抵抗するためにこの思考を始めたはずなのに、気づいたら〈とるにたらない〉ものを見出す自分の眼差し自体が「権力」へとすり替わってしまう。このような暴力性と、映画や映像がこれまでの歴史のなかで何度も権力側のプロパガンダに用いられ、大きな歴史の語り直しに利用されてきた事実が無縁のこととは思えませんでした。それに、何よりまず大前提として、結局〈とるにたらない〉ものたちとは、何かの意味や目的に奉仕しなければ存在することも許されないのか?というところにまで、また立ち帰らされてしまうわけです。
—— たしかに、ある物事に何か特別な意義を見出し「これには語るべき価値がある」と感じるとき、それは同時に、自分都合で世界を峻別し直しているに過ぎない、とも言えるかもしれません。
ただ実際は、それがどこまで悪いことなのかは、僕もずっとわからずにいるんですよ。だって、誰もが見過ごしていて、自分だけがその輝きを認められた何かがあるのなら、やっぱりその声を上げないことには、この世界に「それ」が存在していることすら認識されないわけですから。
だけど、たとえば今回上映する『樹上の家』や『広島を上演する』そしてダニエル・フイ監督の諸作を見ていると、一体誰がその〈とるにたらない〉物事について光を当て・語ることができるのか、誰にその権利があるのか、といった問題意識を軽視できなくなる。
—— ひとつひとつの〈とるにたらない〉ものたちに意味と尊厳を見出したいけど、それを身勝手にドライブさせてしまうことに潜む危うさとのあいだで、引き裂かれてしまう。
まるでアクセルとブレーキを同時に全力で踏み込んでいるような感覚です。ただ、それでもこの煩悶から何かが見つけられるのではないかと思えるのは、今回ゲストにもお迎えする映画批評家の廣瀬純さんの著書『絶望論 革命的になることについて』(2013)に記された、ドゥルーズによる「創造」をめぐる以下の叙述に励まされたことによります。
第一に重要なことは、どんな創造も不可能性に「強いられる」ことなしにはあり得ないという点です。ドゥルーズにとって「創造」とは「逃走線を引くこと」であるわけですが、逃走線の描出は、不可能性の壁にぶつかり、それへの抵抗を強いられることなしにはあり得ない。(P14)
そして第二の重要な点として以下が続けられる。
不可能性の壁はそれとして存在したり、与えられたりするものではなく、我々一人ひとりが独自に作り出さなければならないということです。…ドゥルーズは次のように言っています。「クリエイターとは独自の不可能性を創造する人のこと、不可能性を創造した上で同時に幾ばくかの可能性を創造する人のことだ。…壁に頭をこすりつけなければならない。ひとまとまりの不可能性を手にしない限り、あの逃走線を手にすることはできない…」(P22)
そうして自ら創造した二重の不可能性によって前進も後退も出来ないような「ダブルバインドにデッドロック(P51)」された状態、つまり二つの矛盾した条件に晒され、行き詰まってしまうところからしか、私たちは真の逃走線は描き出せないのではないか、というふうに続きます。
少し抽象的に聞こえるかもしれませんが、僕は今年この部分を繰り返し読んでは、励みにしてきました。
—— 〈とるにたらない〉と「権力」と「映画」をめぐって探ってきたここまでのお題については、現時点でなにかの「逃走線」は見つかりそうですか?
今、自分なりにその糸口になるかもしれないと思っているのは、「映画」がときに作り手の意図を超えて現実の諸相を「つい画面に映し込んでしまう」操作不可能性や他者性を持っていることです。
画面や作り手が敷き込む権力からも、また鑑賞者による眼差しの権力からも無縁に、ただ自生する、とるにたらない「あそび」のような時間や物事のありよう。今回上映する作品で言えば『石がある』や『真昼の不思議な物体』、そしてファム・ティエン・アン監督の諸作や『すべての夜を思いだす』といった作品群に、そうした時間と体験を見つけてもらえるのではないかと思っています。
映画が、そしてこの世界の〈とるにたらない〉ものたちが、たとえ何かの意味や目的に奉仕せずとも「ただそこに在る」ままに見つめられ、祝福され、歓待されていく。そのような経験を、今年のAsian Film Jointで届けられたらと願っています。
そしてその経験が、皆さんの現実における〈とるにたらない〉ものへの眼差しに少しでも変化を与えたり、鑑賞後の会場でたくさんの会話を誘い出すものになれば、本当に嬉しい。
今年も劇場で、皆さんとお会いできるのを楽しみにお待ちしています。
三好剛平(Asian Film Joint /三声舎)